今年はよく動く。まあ目的はライブばかりなんだけど。
生き急いでいる。まるで世界の終わりが迫っているかのように。
実際そうなのかも知れない。
天災、これは防災とか減災だとか言ったところで、天災の威力は我々の想定を遥かに超えるのだと、何度も繰り返す自然現象から学んでいるはずなのだ。学んでいなければ嘘だ。
忘れた頃に、なんて言うけれど、僕は忘れていない。今、大地震が起きる。怖いけど、その可能性を僕は忘れていない。ライブ会場でも思ってしまう。
どうか、この時間だけは何事も起こりませんように、と願いながら。
生きることへの執着はもうない。けれど、死にたいわけじゃなければ、惰性で毎日過ごしていくつもりもない。ずっと思考している。自分のこと。世界のこと。好きなもののこと。
ルーティンを変える。違う道を通る。いつもと時間を変えてみる。食べたことのないものを食べる。飲んだことのないものを飲む。読んだことのないジャンルの本を読む。自分には似合わないと思う色の服を着る。違う香水をつける。いや香水は1種類しか持ってなかった。
発想を変える。基本的に人が嫌いだ。心を乱されるから。そう思いながら人に接するから心が乱れる。人と接するから、心が穏やかになることがあるのも知っている。なぜか。「その人と接してる時、自分の心が穏やかになる」と思いながら接しているからだ。これはそういうものなのだろう。先入観。でもやっぱり人は嫌いだ。猫が好きだ。
変化を人は嫌う。安心したいからだ。知っているものに対して人は恐怖を抱かない。お化けとか、幽霊とか、見えざるものを怖がるのは、未知のものだからだ。
生まれたばかりの赤ちゃん。世界には未知が溢れている。大声で泣くのは、恐怖からだろうか。その答えを僕は知らない。だけど、きっと恐怖ではないと思う。きっと愛を求めて泣くのだと思う。それが人間のおそらくは原始的な欲求。
求めよさらば与えられん。
見返りを求める愛は偽物だ。これだけ金を使ったからだの、これだけ時間を費やしたからだの、洒落臭い。そんな計算の上に成り立つ愛なんて欲しくない。
愛とは与えるもの。一方通行でいい。
誰かに、なにかに、与えた愛は、そのまま同じだけ自分の中に残る。見返りなんて求めなくたって、ちゃんとそこにある。
手助けが必要な人に手を貸した。
胸がぽわーっと温かくなる。その感覚が愛だ。
死んだら何も残らないのかも知れない。でもどうせ最後は世界ごと全部なくなるんだ。残るものなんて何一ついらない。
問題は、どれだけ愛とともに生きられるか、だ。
最近、冒頭の本を読んだ。
正直全部知ってることだった。
改めて読むこともなかったな、と思ったけど、
まだ愛がわからない人にとっては手助けになる本だと思う。