あいどんわなだい

愛はどんなんだい

グッバイコスモス

人生はゲームなんだなって

 

 

そう考えることにしたんです

 

 

いくつかの選択肢

 

 

どれを選ぶかは自由

 

 

その先がどうなっているかは見えない

 

 

見えなくても選ぶんだ

 

 

自分の直感で

 

 

なにかがありそうな方

 

 

もしかしたら行き止まりかも知れない

 

 

その時は引き返してまた選び直す

 

 

厄介なのは

 

 

時の流れによっては同じ道を選んでも

結果が変わる場合があること

 

 

それはもう運と呼ぶしかないものかも知れない

 

 

運を良くするには

 

 

運が悪くなるようなことをしない

 

 

引き寄せがどうとかって話もあるけど

 

 

そんなのは当たり前で

 

 

だって自分が出したものが返ってくるから

 

 

良い運を呼び込みたいなら

 

 

良い行いをする

 

 

人に優しくする

 

 

命に優しくする

 

 

丁寧に生きる

 

 

綺麗な言葉をつかう

 

 

邪気を遠ざける

 

 

 

宇宙とのシンクロがはじまる

 

 

 

必要なものはすべて用意してくれているから

 

 

宇宙は完璧な愛だから

 

 

みんな忘れちゃったのかな

 

 

あなたが神であり創造主なんだよ

 

 

あなたの外に世界は無い

 

 

あなたの内側にすべてがある

 

 

思い出して

 

 

今日が全部だったあの頃のこと

 

 

毎日がキラキラしていて

 

 

溢れるほどの愛で満たされていた

 

 

今だってそう

 

 

失くしてなんかなかった

 

 

 

また明日

 

 

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Switchを売ってきた話

こんばんは。かっしーです。

 

えー、今月ピンチです(汗

 

先月遊びすぎちゃいましたね。はい。

まあ楽しかったからいいんですけど。←それだよそれ

 

 

 

というわけで、どうしたもんかいの〜状態だったわけですが、Xを見ていたら某ゲームショップ?でいいのかな、まあ〇オなんですけど、Switchの買取キャンペーン中で今ならなんと2000円UPしているとの情報が。

 

 

 

あ、売る前に写真撮っとけばよかったな。

 

 

その投稿を見るなり、「コレや!」と思って初期化する方法とか調べて一気にやってやりました。箱はペットのにゃんこがボロボロに噛みちぎっていたので箱無し。説明書もどこかにあるかもですが探すのも面倒だったのでとにかく今日売りに行くと決めて。

 

 

 

このSwitchには、僕、本当に感謝しているんですね。

 

 

 

もう5年前かな、3ヶ月くらい休職した時期があって。もうずっと家に篭もりっきり。5年前なのでコロナの前ですよ。そんな時代を先取りしたおうち時間に、何かすることないかなーと考えて、選んだのがSwitchでした。ひたすらサガスカーレットグレイスやってたなあ。僕はラスボスが強かったりするともう挫けてやめちゃうタイプなんですけど、あれに関してはめちゃめちゃやり込んでちゃんとラスボスも倒して、ほとんど全パターンのエンディング見たんじゃないかな。もともとサガシリーズは好きだったしね。ゲームに没頭していれば、他のことを考えなくてよかったから。

 

 

 

それからはまあパワプロとかもやっていたけど、だんだんと触る機会は減っていき。直近でプレイしたのももう覚えてないくらい前で。1年近くなるんじゃないかな。でも何故か枕元に置いていました。お守りのように。

 

 

そんな感じだったので、もともと売るつもりはなくて。だから箱とかも全然大事にしようとか思わなかったのね。で、こういう時に後悔すると。笑

 

 

 

それでもさすがSwitchというか、5年も経っても値崩れが小さいので今回は非常に助かりました。2度も僕を助けてくれたSwitch、本当にありがとう。この恩は忘れない。

 

 

 

その帰り足で丸善ブックオフに寄って、これから必要になりそうな予感を感じたステキな本たちをお迎えしてきた。

 


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僕がこれからやっていこうとすること。機会があればそんな話も書けたらいいな。

 

 

今回も読んでくださりありがとうございます。

 

では、またお会いしましょ。

 

カレーパン

   仕事帰り、家の最寄りのコンビニに立ち寄り、自分の中で安定の甘い菓子パンと、食べたことのない味のカップ麺を手に取る。その2つをレジへ持って行くと店員さんに「カレーパンがお安くなってますがいかがですか?」と勧められる。いつも何か声をかけてくれるオーナーらしき年配女性ではなく、もう少し若い、と言っても歳の頃は50代だろうか。もしかしたらオーナーの親族かも知れない。ともかくこれまであまり面識のない方であった。

 

 

 

  「お店で揚げたカレーパン」がセール中なのは知っていた。何度か口にしたことがあるけれども、クオリティ高いんだよなあれ。

  財布の中にある現金は小銭のみで数百円。少し足りない気がしたので「また次回で」と返す。

 

 

  金額が表示され、支払いを終える。

 

  今や多くのコンビニレジが半自動式みたいなものに変わった。現金の場合は人を介するとお釣りの間違いなどが生じることもある。まあそれも人らしくていいじゃないか、なんていうのは呑気すぎなんだろうか。

 

 

  改めて財布の中を確認すると、思ったよりもお金が残っているようだった。

 

  「カレーパンっていくらくらいでした?」

レジ台の上に大きくPOPがあるのだが、あえて確認してみる。

  「129円ですね」

  小銭を数えてみるとまだ145円くらい残っていた。

 

 

  「足りないかと思ったんだけどギリギリあったのでやっぱりカレーパンも買います」

  「あらま、じゃあ私がお金出しましょうか」

 

  そこからまた3ターンほどの会話が生まれる。

  (内容はややプライベートな事柄に触れるので割愛する。)

 

 

  お客さんが入れ替わり立ち替わりするようなせかせかしている環境ではなかなかこんな場面は現れないだろうが、その時は店にはその店員さんと自分しかおらず、たまたま忙しくない時間帯だったのかも知れない。

 

  こんな人間的なやり取りが日常のちょっとした癒しになるんだなぁということを忘れないよう覚え書きしておく。

 

 


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病みつきになる味。

3月5日までセールらしいのでもう1個くらい食べてもいいかな。

能登半島地震

 

 

まずは、この度の令和6年能登半島地震により被災された方々にお見舞い申し上げます。犠牲になってしまわれた方々や、その大切な人たちの無念はいかばかりか、想像も及びません。

 

 

 

その日のこと。

こちら仙台でも、いやな感じの長い横揺れがありました。何かのテレビを見ていたところでしたが、緊急地震速報も鳴りました。

 

 

真っ先に自分の心の動きとしては、「心を守ろう」としました。発災当初の情報は追いましたが、それからはなるべく最小限に抑え、いつも通りの生活と精神状態を保つことを心がけました。そのことにも感謝しつつです。

 

 

そうして今、少し心に余裕が持てる状況になり、ラジコなどで発災から数日間のいくつかの番組をチェックしました。

 

 

刻々と変わっていく被災状況。インフラが止まったことによる避難所の劣悪な環境。電気も止まり、食料も水も足りない。衛生用品も。救助に入るにも物資を運ぶにも道路が寸断、崩落しているなど、半島地形の特有な道路事情などもあり思うようには動けない歯がゆさ。そういったものを知りました。自分のことをまず考えたことを恥ずかしく思い、少し後悔もありました。

 

 

ニュースから流れてくる行方不明の方々の名前。

それは1人1人が名前のある存在で、1つ1つの命であるということ。

想像する。

元旦に、久しぶりに集まっていた親戚同士や、友人、子どもたちも居たことだろう。まさかこんなことが起こるとは夢にも思わずに。

 

 

「(1月)1日になんでこんなことされなきゃいけないんだ」

 

 

被災した方の悲痛な叫びをテレビで聞いた。

 

 

 

今この瞬間にも、命を助けつなぐため、被災した人たちのケアのため、ライフラインの復旧のため、精力的に活動している皆さんがいます。本当に頭が下がる思いです。

 

 

僕は人命救助のエキスパートでもなければ、災害支援の知識なんてのも不勉強でほとんど持ってない。あり余るほどのお金があるわけでもない。たとえ何かしたいと思っても、具体的に直接的に何か役に立てるとは思えない。本当に無力、その一言に尽きる。

 

 

結局は日々の自分の仕事をやっていきながら、好きなことにも気持ちを向けながら、心身ともに健康であること、命あることに感謝して生きていくこと。

そんな平凡なことしか言えないけれども、そんな平凡な毎日こそが本当に幸せで豊かさに恵まれているものだと気づくこと。

 

 

その中で、もし少し余裕があれば、これから長期戦になっていく復興の手助けになるような募金であるとか、現地の名産品や美味しい食べ物やお酒を応援するとか、自分にできそうな範囲のことで何かの力になれればとは思っています。

 

 

僕は東日本大震災時、宮城にいたわけじゃないけど、今この宮城県で生かされている者として。

 

あの時、全国から、そして全世界から本当にたくさんの応援をもらって、心配してもらって、今ここにこうして暮らしていられるのはそんな支えに助けられたからだ。今度は支える番だ。困ったら助け合えばいい。それが出来るのが人間の素晴らしいところのはずだから。

 

 

こんな文章を書いたところで、誰かを助けられるわけでもなく、ただの自己満足に過ぎないのはわかっている。それでも、この2024年の始まりに、こうしてブログを続けていく上でも、このことをスルーしていくわけにはいかなかったです。ご理解いただければと。(それにしても、まともな大人の文章が書けない大人だということがバレそうでいやだなぁ。)

 

 

最後になりますが、被災地の皆様が、少しでも早く、少しでも安心して生活ができることを心から願ってやみません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明けまして。

 

 

 

「あのおばちゃん達、マスクしないで話してるから隣空いてるけど座れないじゃん」

 

 

(飲み食いするんだからマスクはしないだろ)

 

 

「食べたら着けて話せばいいじゃない」

 

「みんな消毒しないで入って行くのね、気が緩んでる」

 

 

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こんな会話をしたのを忘れない為に下書きに入れておいたのがちょうど1年前だったよう。

 

今回はここから記事を書き進めてみたいと思う。基本、ノープラン。

 

 

 

当時、その先に何を書きたかったのかはお察しの通りなのだが、まあ今年2023年というのは見た感じで言えば「元の生活に戻った」年だったと言えるのだろう。

 

ただ、以前と違うのはそこに深い分断が残されたこと。

 

いや、もともとあったものがより可視化されただけなのかも知れないな。

 

 

上の会話の相手も今年何度か会ったわけだが、未だに四六時中マスクをして外出しているようである。家の中までは知らない。

そのくせ、客が多いからと喫茶店に入らずバカみたいに寒い3月に外のテラスで座って話をしようとする。どちらが体に毒なのか、正常や判断がつかなくなっている。自分は寒いところで長話している方が体に良くないと思う。

 

 

かように、メディア等による洗脳、それが「正しさ」だと思い込ませる同調圧力、それはこれまで大成功を収めてきたのだろう。そうやって人々の意識をなるべく均質化させていくことによるメリットもあるというのは分かる。たとえば大衆の行動を誘導しやすくするとか。

 

 

しかし、現状を改めて見渡してみるに、そのメリットよりもデメリットの方がいよいよ目につくようになってしまっていると思うのだ。

 

 

 

そんな風にいうと直ぐに陰謀論者扱いをされる。

自分だって普段からそんなことを言いふらして歩いている訳では無い。ただ1人、頭の中で、あれは正しいのか、間違いなのか、それともわからないのか。

 

本当は全部わからないことだらけなんだけど、そういうことを考え続けている。

 

 

 

そして辿り着いた結論は「逆張りでいい」ということだ。

 

 

周りに合わせて、とか、世の中の動きがこうだからこうした方がいい。それが良きことだとされてきた。

協調性。同調圧力。悪だとは言わない。しかし無条件に良いとも思わない。

 

 

その思い込みから一旦外れてみる。

そうすると世の中の多くの人が見ていない部分に気づくことが出来るようになる。

 

本当にそれはしてはいけないのか。あるいは、しなければならないことなのか。

思考停止状態にならず、誰かの声になびくのではなく、自分の心の声を聞く。

 

動く前はビビってしまうかも知れない。

安全じゃないかも知れないから。何か代償を支払うことになるかも知れないから。

 

 

でも、それをする場合としない場合でどちらの方が良いかなんて、結局やってみなければ分からないのだ。それなら自分を実験台にしてやってみて確かめる。そんなシンプルなことが自分の人生を掴む第1歩のような気がするのだ。そもそも、良いと捉えるも良くないと捉えるも自分次第。どんな経験も代償も無駄じゃないと心から思えるようになったら最強。

 

 

 

言葉や思考も大切。願いや祈りだって大切。

でもそれだけじゃ足りない。

 

 

この地球で、体を持って生きる私たちは、行動してこそ本来の力が発揮される。

 

 

「自分がそんなこと出来るはずない」と思っていることは、大抵の場合ただの思い込みでしかないのだ。逆に言えば、「こんなことだって出来る!」という思い込み、勘違いを楽しんでいける人が強い。

 

 

 

思い込みの檻から飛び出して、もっと自由に行動していく。

 

 

そんな抱負を持ってこの年を越えていこうと思っているところ。

 

 

 

 

ここまで書いてきて、抱負なら新年一発目に書くべきだったんじゃないかと思ったりもした。まあいいか。

 

そんなわけで、今年もたいへんお世話になりました。来年もどうぞよろしく。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

本当は左利き?

どうも、ご無沙汰してます。元気です。あ、元気という名前ではなくて、かっしーと申します。もっと言うとかっしーも名前ではなくてニックネームです。よろしくお願いします。

 

 

 

 

最近M-1の動画ばっかり見てるので面白な掴みしてみようと思ったら盛大にスベりましたね。。

 

 

 

さて。Twitter(現X)では、活発なのかは分かりませんがひとまず毎日何かしら動いてはいるのですが、下書きに一旦しまうものも多くなってきて。これは後からブログに使えるかなとか、今はまだ時期じゃないかとか、いろいろな理由でストックネタは増えていきます。そんな中から今日は1つ。表題の「本当は左利き?」というお話をしたいと思います。

 

 

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自分は現在、日常生活においてほとんどの動作は「右」中心で行っています。食事の時も、ペンを持つのも、リモコンを操作するのも、スマホをタップするのも、自販機のボタンを押すのも、ペットボトルの蓋を開けるのも、とにかくあらゆる動作と言っていいでしょう。それらをすべて自然に右を使って生活している。

 

 

 

そんな僕、密かに「左利きへの憧れ」があったりします。

 

 

野球においては左腕投手はそれだけで重宝される面もあるし、「シュート!」の田仲俊彦のように実は左の方が得意だったみたいなやつもかっこいいじゃないですか。

 

 

それに左利きの人は一般に右脳派(想像力や芸術センスなどが優れている)とも言われている。こうして今も書いているような文章、言葉についてはともかくとして、絵や音楽は(好きではあるけど)とにかく苦手意識しかない。そういうのが得意な人への憧れもある。そう言えば歴代の推しメンは絵が上手な人が多いな。これは特に関係ないかもだけど。

 

 

 

また、利き手は遺伝という説もあります。僕の親父はがっつり左利きの人。そして母親は普通に右利き…と思って暮らしていたのですが、ある日突然「実はお母さんも左利きだったんだけど、何かと不便するから」という理由で僕を右利きにするように教え、自分も右利きに矯正したとカミングアウトしてきたのです。

 

 

 

 

まったく、なんて余計なことをしてくれたのだ。

 

 

 

 

などとは当時は思うことも無く、そうなんだ~という感じでそのまま右利き人間として生きてきたのですが、最近思うのが「もしも自分が左利きになっていたらどんな人生を歩んでいたのだろう」ということ。

 

 

 

たかが利き手ごときで、と思われるかも知れませんが、もしかしたら中村俊輔になっていたかも、ケイスケホンダになっていたかも、菊池雄星松井裕樹になっていたかも知れないじゃないか(ならないけど)、なんて思うわけです。

 

 

 

スポーツ選手の名前ばかり挙げましたが、アーティストの線もあったかも知れないしな。

 

 

とまぁそんな感じで、遺伝が関係あるなら潜在的には左利きの素質はあるんじゃないかと、たまに左で文字を書いたり、ゴミを捨てる時に左手でポイッとしてみたりもするのですが、やはりなかなか上手くはいかない。今からでも練習すれば左利き人間になれるのだろうか。良い歳をして左利きに憧れる男の話でした。おわり。

 

 

 

 

咲かせにいくよ 内なる花を

定期的にある程度の長さの文章を記す機会として、土日にその時々の思ったことや感じたことをここで何か1本書こうというのを始めたのですが、最近はそれを代わりに言ってくれるような(Xの)アカウントによく出会うようになり、それを読んでいるだけで満足していたり。

だってそれ以上付け足すことがなく「ああそれだよなぁ」といちいち深く納得してしまうので。

 

 

 

キーワードは「安心して素直に生きる」。これでしかない。

 

 

居たくない場所に無理して居続ける必要はないし、

本当はやりたくないことをケツ引っぱたいてやらなくていいし、

「〇〇すべき」という考えとか常識は蹴っ飛ばして、

要らない人間関係は切り捨てていいし、

そして大切に思うものはちゃんと大切にする。

 

 

変わっていくことを許す。自分も他人も世の中も。その中に、変えたくないものや世界もきっとある。

それが今の自分(あなた)にとっての大切に思うものだよ。

それは決して誰からも冒されることのない聖域。

そこで自由に踊れ。

 

 

 

軽やかに進んでいく。

きっと大丈夫。

今を見て。

 

 

 

空の色、風の音、季節の匂い、

呼吸のリズム、

柔らかな手触り、ぬくもり、

甘み、辛味、苦み、ふくよかな味わい。

 

 

 

五感で生活を味わっていく。

感覚で彩る。

 

 

そんな人生が良い。

 

 

 

 

〜今日の一曲〜

 

藤井風『花』