あいどんわなだい

愛はどんなんだい

始まりも終わりも

いつかのこと。

 

 

クラス文集の中の「将来の夢」に、『関西弁を話せるようになりたい!』と書いたら、母に叱られた。

一生残るものにくだらないことを書くな、ということらしかった。

なぜそんなことを書いたか、理由はよく覚えていない。

 

 

卒業文集には「生まれ変わるなら何になりたい?」──『飼い主に可愛がられる猫』。

当時、実家で飼ってた猫が大好きだったんだよ。

猫になったら幸せだろうなーっていうのは今でも思っている。 

 

 

 

 

本当は、「夢」なんてなかった。

 

 

なんとなく勉強して、なんとなく進学して、なんとなく就職して、「夢」なんて持たなくてもそうやってなんとなく人生は進んでいくものだと思ってた。

 

 

 

 

でも、そんなことなかった。

 

 

 

 

人生には『岐路』がある。

分かれ道。

なんとなく決められないような、重大な選択。

 

 

たとえば、

 

 

実家を出て一人暮らしをするとか。

 

仕事をやめるとか。

 

結婚とか。

 

 

 

 

どんな選択をするにも、「夢」や「自分の望むこと」がわからなければ決めようがない。

 

 

それは地図を持たず、目的地も決めずに旅をするようなものだ。

(…と言っても今はスマホ1つあれば大体どんな知らない土地でも歩けてしまったりするので例え方が難しい時代だなぁ。)

 

 

 

かくして、「夢」がなかった僕は、迷いの森を長く彷徨うことになる。

 

 

 

暗くて、寒くて、何も見えない。誰もいない。一人きり。こんなところ早く出たいのに。

出たかった、はずなのに。

 

 

そんな場所でも、どうやら人間の“慣れ”という能力は発揮されるらしい。

 

 

いつしか一人でいることも、暗闇も、静寂すらも、怖いとは思わなくなっていた。

 

 

むしろ、そのおかげで、たまに射し込む陽の光の暖かさに恍惚となってみたり、水の清らかさに感動したり、そんな生きている素晴らしさみたいやものさえ感じられたりするようになった。

 

 

そして思うのである。

 

 

これが自分の「夢」だったのではないか、と。

 

 

こんな境地に至ること、それこそがこの人生の夢だったとしたら。

 

 

こんなに嬉しいことはない。

 

 

だって、もうこれ以上なにも望む必要ないのだから。

 

 

生きているだけでいい。執着は要らない。

生きているだけで、すべてに感謝して、すべてに感動していられる。


だから、いつ終わっても大丈夫。

 

 

これを幸せと呼ばずして何と言うのか。

 


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