あいどんわなだい

愛はどんなんだい

「多様性」について本気出して考えてみた

基本的に全然喋らなくて平気な人なんですけど、昨日の夜とか今日の日中とかどうも「喋りたい!」が自分の中でぐるぐるしていて怖いくらいでした。こんなの今までにない経験で。とりあえず今(2021/11/14 23:21)は落ち着いている。これって躁ですか?

 

 

うつ気質があるのはわかる。でも躁うつではない、と思っているのだけど。そんなテンション上がる時とかないし。常にローテンション。それが自分。もしかしたらライブに行ってる間だけ躁になってるのかも知れないけど。

 

 

一つの可能性として考えたのは、もういつからかわからんくらいのうつ傾向の性格が、子どもの頃のような元気で健康な性格に戻ってきたのか…?と。あの頃は全然人と話すのが苦とか思ってなかったし、言いたいこと言えてたよなーと。あんな風になれたらいいのにな、でも無理だよな、というこの十数年間。

 

 

まあ、そうだといいけど、そんなはずがないよなと。

 

 

なんか、でも、ちょうどさっきCreepy Nutsが出てたマツコ会議を見たんだけど、あれはテレビに出る人だからこその苦悩みたいなところもあるけれど、「言いたいことをそのまま言えない」「本当の自分を出すのが難しい」、そんなような話をしていて。松永さんが泣いていたけど、マツコ・デラックスもおんなじ悩みを抱えていると告白して一緒に泣くというすごい回で。通じ合っていたよねー。

 

 

 

なんだろう、それぞれが 「他者への気遣いをしなくちゃいけない」 ということを意識してしまうがあまり、自分自身を抑え込んでしまって結果みんながみんな生きづらくて息苦しい、そんなアホみたいな社会になってきている気がするよね。相互監視社会と言ってもいいのかも知れないんだけど。テレビでもSNSでも公共空間でも、みんな人から白い目で見られたくない。妙なやつがいたら徹底的に吊るし上げる。

「どうしてお前はみんなと同じにしないんだ」と。

 

 

その一方では、「多様性」をもてはやす。「多様性」ってどういうこと?っていうのをちゃんと考えてみたことあるのかと問いたい。本当に「多様性」のある社会を実現するつもりでいるのなら、上に書いたようなことは起こらないでしょうよ。

 

 

“みんなちがって、みんないい。”

 

 

言葉では言うよ、そうやって。でも実際、どうなの?

 

 

自分と、他の人は違っていて当たり前。そういう個人が集まって社会が動いている。少なくとも自分に実害が及ばない限りにおいては、他人がどんな人であっても許容すべきなのではないか。それなのに、ちょっとしたヘマや失言、それを騒ぎ立てて「炎上」させるのが得意だよねー。それでどんどん萎縮しちゃってますます生きづらくなってストレスを抱え込む。これは無間地獄ですか?

 

 

とまあ、なんやらかんやらと暗い話をしてしまったのだけど、たまにはこういう回もいいだろう。なんか「多様性」ってマジックワードに対して個人的には拒否感があるんだよね。「多様性」が悪いと言ってるんじゃない。でもそれがさも素晴らしいものなんだ!とそれを振りかざしてひれ伏せさせるのも違うでしょう、というね。なんかそういう気持ち悪さがあるなーというお話でした。

 

 


Creepy Nutsの話をしたので『Case』という今年リリースのアルバムを。

とにかく今の彼らにしか見えないもの、そういうものが詰め込まれたリアル感のある素晴らしい作品だなーと思います。ぜひ。
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