あいどんわなだい

愛はどんなんだい

「親ガチャ」



最近見聞きする、「親ガチャ」というワード。

 

子は生まれてくる親を選べない。そのことを称して「ガチャ」に見立ててるわけだけど。

 

軽いよね。やっぱり。

 

そこにある現実の問題に対しての言葉の追いついてなさというか。何でも分かりやすくしようとする世の中の流れというか。

 

確かに育児放棄や、暴力、精神攻撃、そういうどうしようもない、親になる資格のない人間もいると思うよ。度を超えた教育熱心とか、束縛、などもあるだろう。

 

ただ引っかかることがある。

 

「ガチャの引きが悪かった」、つまりそれって「自分は悪くない」と言いたい?

 

そう思うところもある。

 

いや、親の無責任さとか抑圧性、そういうのを子どもの側からどうにかして変えろなんて言っても無茶な話で、そうじゃなく。

 

生まれるところを選べない以上、その中でどう自分らしい自分を獲得するか。親のせいでこうなった、じゃなくて。

 

もちろん、そう思えないくらい追い詰められてしまう人だっている。困難を突破する気力さえ奪われる、そういう本当に辛い状況に置かれてしまう人もいる。そこまで深刻なケースはもう専門家なりに繋がないといけないレベルだと思う。

 

僕の考えているのは、そこまで行ってはいないのに、言い訳のように「親ガチャ」というワードを使うことについての嫌悪。嫌悪だとやや強いかも知れないな、なんかヤダなーと思うくらい。

 

簡単な話、そうやって自分がダメな理由にするような存在なら、そんな親との関係なんて切っていいんですよ。

 

 

 

そう言えばなんだけど、物心がついてきた頃(※ここでは周りのお父さんお母さん達と自分の親とを比較して大体なんとなく自分の環境を知るようになる頃、くらいの意)の親の年齢に自分も差し掛かっているんだなぁと。

 

そういう時、よく「親の気持ちや苦労が分かるようになった」だとか言いますよね。もちろん想像がつかないわけじゃない。経済的にとか、体力的にとか、社会的立場だとか。諸々の事情が自分の体感として分かってくるというのはあるんだけどね。

 

でも、違う。やっぱり。

 

たとえば、自分がその当時の親の立場だとして、絶対に子どもには言わないなってことや、やらないなってことをされたり言われたりしてたよなって。

 

小学校高学年くらい。あくまでも自分の体験から思うことだけど、いろんなことを自分で考えられる歳になってきて、幸せとか不幸せとか、生きる意味とか目的とか、そういう人生観の軸みたいなものが形成される時期だと思うのね。

 

そこで、それを根底から覆すようなことを子どもに言いますかっていう話。母が話してきたことがあってね。詳しくは言えない、言わないけど。真偽もわからないし。でもそれは父もいるところでの話で、父も否定してなかったから自分の中では本当のことだと思ってて。未だにそれはどこかに刺さってるよね。一生抜けない棘。そういうものを思春期に聞かされたらどうか。自分なら言わないです。

 

 

まあそういう個人的な思いも横に置きつつ、聞くたびにモヤっとするなーというワード、「親ガチャ」について語ってみました。

 

 

(補足)

一応、これは言い訳になってしまうけど、この文章の中で、カバーできてない部分は本当に沢山ある、現実に重い課題に苛まれている人には届かない内容だと思ってます。そんな簡単に言ってくれるなと怒られると思います。どうか怒らずに見てやってください。

 

「自分を大切にしてほしい」

 

手垢のついた言葉だけれど、そう思っています。まずは自分。自分が確立してもいないのに、誰かの為に生きることなんて出来ないんだから。

 

 


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何か画像を、とフォルダを流してみた。

ニトリで見つけたインテリア。

良いよね。僕の理想に近い。